三国志14

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【三国志14】鄒忌の武将能力値紹介

鄒忌(スウキ) 統率42 武力34 知力86 政治86 魅力78 戦国時代の斉の宰相。斉の威王、宣王に仕え、辣腕を振るった。長身で、容姿に秀でていたことでも有名。琴の名手として知られ、その技をもって威王に仕えていた。ある時、琴になぞらえて政治を語り、その内容に感服した威王から三カ月後に宰相に任命される。一年後には下邳に封ぜられ、成侯と号した。将軍の田忌[デンキ]と仲が悪く、田忌を陥れる為に公孫閲の献策を容れて威王に魏討伐を説き、田忌が魏に敗れて失脚することを狙った。しかし、田忌は三戦三勝したため、謀略を用いて田忌に謀反の疑いをかけ、楚に亡命させた。
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【三国志14】蕭何の武将能力値紹介

蕭何(ショウカ) 統率21 武力17 知力86 政治99 魅力89 漢三傑の1人、宰相。漢王朝初代相国。沛県の役人だったが、陳勝・呉広の乱が起こると劉邦に呼応して挙兵。以後、劉邦軍の内務一般を取りしきり、秦滅亡時には法令・文書を押さえて、後の統一事業に役立てた。項羽と劉邦の争いが始まると、韓信を推挙し、地味ながら欠かせない後方支援を一手に担当。項羽との戦に負け続ける劉邦に、兵糧、兵士を補充し続けた。統一後、その功績は群臣中最高のものと評価される。後に相国になると、国家整備と全土の回復に努め、漢王朝の地盤を築き上げた。
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【三国志14】呉起の武将能力値紹介

呉起(ゴキ) 統率94 武力67 知力96 政治95 魅力60 戦国時代、楚の宰相。兵法家。はじめ魯に仕えたが、主君に疎まれて出奔した。次に魏の文侯に仕え、西河太守となる。諸国と歴戦して無敗を誇ったが、文侯没後の政争に敗れると、楚への亡命を余儀なくされた。その後、楚の悼王[トウオウ]の知遇を受けて宰相に就任。王の期待に応えるべく、法体制の整備や貴族特権の廃止など、大胆な改革を断行し、楚の軍事力を飛躍的に向上させた。しかし、この政策が貴族の恨みを買うこととなり、悼王没後に暗殺された。著書の「呉子」は「孫子」と並ぶ兵法書として後世に伝えられている。
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【三国志14】項籍の武将能力値紹介

項籍(コウセキ) 統率98 武力100 知力66 政治19 魅力95 中国史最強の武将。西楚の覇王。楚の名将・項燕の孫。若い頃より武芸、兵法を修め、陳勝・呉広の乱が起こると叔父の項梁に従い挙兵した。秦討伐戦では各地の秦軍を破って名を馳せ、項梁死後は楚軍の総帥となる。関中争奪では劉邦に遅れたが、実力で諸侯を黙らせ、秦を滅ぼして覇王となった。だが、その後は各地の反乱に悩まされる。後に劉邦との抗争が激化すると、戦えば必ず勝利したものの、次第に戦力を消耗。四面楚歌の中、垓下の戦いで漢軍に敗れる。鬼神の如き強さを見せて漢軍の包囲を抜くが、天命に挑み力を示した後、自害。
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【三国志14】公輸般の武将能力値紹介

公輸般(コウシュハン) 統率33 武力16 知力71 政治56 魅力62 春秋末期の魯国の人。魯般とも呼ばれる。後世、「大工の神」「工聖」とされる伝説的な工匠。機械を作るのに巧みで、木と竹で作った鳥が3日も飛び続けたという。楚に居る際に「雲梯」と呼ばれる攻城兵器を作ると、楚王は雲梯を使って宋国を攻めようとした。この話を聞いた墨子は楚に出向いて公輸般に机上での戦いを挑み、公輸般の攻めをことごとく撃退してみせた。感嘆した楚王は、宋国を攻めないことを墨子に誓った。この故事から「輸攻墨守[シュコウボクシュ]」という四字熟語が生まれた。
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【三国志14】黄歇の武将能力値紹介

黄歇(コウケツ) 統率72 武力62 知力83 政治82 魅力73 戦国時代の楚の宰相。号は春申君。戦国四君のひとり。楚の頃襄王に仕え、秦の昭王を説得して白起による楚侵攻を思いとどまらせ、盟を結んだ。秦の人質となった楚の太子・完に随伴して秦に数年滞在。頃襄王が危篤になった際、秦は太子の帰国を認めなかったため、黄歇は太子を楚へ脱出させ、自らは范雎の取りなしにより帰還した。太子・完が即位して考烈王となると、秦脱出の功により宰相に任ぜられる。考烈王の死後に失脚することを恐れ、自らの子を身籠った李園の妹を王に献じたが、考烈王の死後、李園の刺客によって殺害された。
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【三国志14】孔丘の武将能力値紹介

孔丘(コウキュウ) 統率70 武力66 知力85 政治87 魅力97 儒教の祖。尊称を「孔子」。諡[オクリナ]を文宣王。文武両道の才人で、身長も9尺6寸(約2.2m)を超える偉丈夫だった。弟子たちと共に各地を周遊して見識を高め、魯と斉で仕官するが、その理想は現実政治の前に敗れてしまう。以後も、諸国を歴訪して君子の道を説き続けたが、覇道の世に彼が主張する王道は受け入れられなかった。晩年は祖国・魯に戻り、愛弟子の死などの不幸に見舞われながらも、弟子たちを教育。死後、その言動や思想は弟子たちによって「論語」としてまとめられ、多くの人々の尊敬を集めることとなった。
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【三国志14】項燕の武将能力値紹介

項燕(コウエン) 統率88 武力80 知力77 政治62 魅力82 戦国末期の楚の将軍。下相の人。項梁、項伯の父。項羽の祖父。項氏は代々楚の将軍を務め、項の地に封ぜられたため項姓を名乗った。秦王・嬴政が李信と蒙恬に20万の兵を与えて楚攻略を命じた際、二手に分かれていた李信と蒙恬の軍が城父で合流したところを急襲し、秦軍を破る。その後、秦の王翦が60万の大軍で楚に侵攻してくると、楚軍を率いて対峙。王翦は堅守して楚軍に隙ができるのを待ち、項燕の軍を奇襲して大破。楚王・負芻[フスウ]を捕虜とした。項燕は楚の公子・昌平君を楚王に擁立して反抗したが、王翦に敗れて戦死した。
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【三国志14】劇辛の武将能力値紹介

劇辛(ゲキシン) 統率79 武力87 知力41 政治35 魅力40 戦国末期の燕の将軍。沙丘の乱で国が乱れた際、趙を離れた。楽毅や鄒衍[スウエン]らと同様、「隗より始めよ」という郭隗の進言を容れた燕の昭王が人材優遇策を始めて以降に燕の臣となる。以後、昭王から燕王・喜まで五代の燕王に仕えた。趙の将軍・廉頗[レンパ]が魏に亡命し、代わって龐煖[ホウケン]が趙の将軍に任ぜられたと聞いた燕王・喜は、劇辛に趙を攻撃するよう命令。趙にいた頃、龐煖と仲が良かった劇辛は、龐煖を軽んじて攻め込んだが大敗し、燕軍は2万の兵を失った。劇辛は捕虜となり、殺された。一説には自殺とも。
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【三国志14】屈平の武将能力値紹介

屈平(クツヘイ) 統率38 武力28 知力85 政治91 魅力88 戦国時代の楚の政治家、詩人。諱は平、または正則で、字が原。博聞強記で治乱興亡の事跡に明るく、文章に長けていた。楚の宗族で、楚の懐王に信任されて左徒、三閭大夫[サンリョタイフ]となる。傾襄王のとき、中傷にあって江南に追放され、時世を憂えて悩み苦しんだ末、秦軍が楚の都・郢[エイ]を落としたことで楚国の将来に絶望。汨羅[ベキラ]の淵に身を投じ、入水自殺した。「楚辞」の代表的作家で、その抒情的叙事詩「離騒」は後世の文学に大きな影響を与えた。ほかに「天問」「九歌」などの詩が有名。
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