三国志14

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【三国志14】虞姫の武将能力値紹介

虞姫(グキ) 統率28 武力15 知力68 政治61 魅力96 項羽の愛人。常に項羽の傍にあり、片時も離れることはなかった。項羽が垓下[ガイカ]の地で大敗した時、足手まといにならぬようにと、自ら命を絶った。
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【三国志14】姫平の武将能力値紹介

姫平(キヘイ) 統率60 武力52 知力75 政治80 魅力78 戦国時代の燕の君主。燕の昭王。父王が宰相の子之に王位を禅譲したことで、燕国は内乱状態となる。国内が混乱しているところを斉軍に蹂躙され、燕は一旦滅亡の憂き目を見た。王に即位して燕国を復活させた姫平は、富国強兵と斉への復讐のために人材が必要と考え、郭隗に共に国政を司ることができる賢人の紹介を依頼。その際の「まず隗より始めよ」という郭隗の進言を容れたことで、各地から楽毅や劇辛らの有為の士が集まった。姫平は民と甘苦を同じくして、没落していた燕を再興させ、全盛期を築き上げた。
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【三国志14】魏無忌の武将能力値紹介

魏無忌(ギブキ) 統率92 武力71 知力87 政治70 魅力84 戦国時代の魏の公子。昭王の末子で、安釐王[アンリオウ]の異母弟。号は信陵君。戦国四君のひとり。信陵君の姉は趙の平原君の夫人。秦軍が趙の都・邯鄲を包囲した際、魏王は趙の要請に応じて援軍を出したが、秦を恐れて国境に留まったままであった。信陵君は食客の助けを借りて兵権を示す割符を盗み出し、将軍の晋鄙を殺して兵を掌握。邯鄲に向かい、趙の危機を救った。その後、趙で10年を過ごすが、安釐王の要請により魏に戻り、上将軍となる。信陵君は魏・趙・韓・燕・楚の五カ国の軍を集めて秦の攻勢を防ぎ、威名は天下に鳴り響いた。
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【三国志14】魏罃の武将能力値紹介

魏罃(ギオウ) 統率54 武力58 知力68 政治74 魅力70 戦国時代の魏の君主。魏の恵王。武侯の嫡子。魏の初代の王。梁の恵王とも。公叔座が臨終の際に公孫鞅(商鞅)を推挙し、宰相にするか誅殺するよう遺言したが、何もせずに秦に行かせてしまい、結果的に秦を強国にして魏を窮地に立たせた。馬陵の戦いで魏軍が斉軍に惨敗すると、これを好機と見た秦の商鞅が魏に侵攻、黄河以西の地を奪取した。魏は安邑から東方の大梁に遷都し、恵王は商鞅を誅殺しなかったことを大いに悔やんだという。かつては強盛を誇った魏も度重なる敗戦により衰え、韓と共に斉に服属した。「五十歩百歩」の故事でも有名。
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【三国志14】韓武の武将能力値紹介

韓武(カンブ) 統率57 武力66 知力72 政治82 魅力71 戦国時代の韓の君主。韓の昭侯。「呂氏春秋」では、昭釐侯[ショウリコウ]。父は先代の懿侯(共侯、荘侯とも。名は若山)。韓は「戦国七雄」の中でも最弱国で、常に近隣の秦や魏に脅かされていた。昭侯は、鄭の下級身分出身の法家・申不害を登用し宰相に任命。申不害は宰相の任にあった15年の間に富国強兵を行って韓の全盛期を築き上げ、秦や魏に国境を侵させなかった。申不害の死から3年、韓で旱魃があった年に高門の造営に取りかかり、楚の屈宜臼から「民の危急を憐れまず、時が衰えたのに奢侈になった」と批判された。翌年、死去。
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【三国志14】韓非の武将能力値紹介

韓非(カンピ) 統率16 武力12 知力90 政治96 魅力64 戦国時代末期の思想家。法家の代表的人物。韓の公子。李斯と共に荀子に師事したという。弁舌は不得手であったが著述をよくした。しばしば書簡で韓王に建言したが容れられず、「韓非子」55編を著して政治の方法を論じ、秦王・嬴政[エイセイ]に注目された。のちに韓の使者として秦に赴く。以前の韓非の著作を読んで感ずるところのあった嬴政は、韓非を登用しようと考えたが、韓非の才能が自分の地位を脅かすことを恐れた李斯が讒言し、韓非は投獄された。李斯は獄中の韓非に毒薬を届けて自殺を促し、韓非はこれに従ったという。
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【三国志14】韓信の武将能力値紹介

韓信(カンシン) 統率100 武力74 知力95 政治74 魅力68 漢三傑の1人、大元帥。楚王。淮陰侯。淮陰の貧家の出自で、若い頃はよく周囲から馬鹿にされていた。陳勝・呉広の乱が起こると、項梁・項羽の軍に参加するが、進言が聞き入れられないため脱走。漢中に左遷されていた劉邦軍に仕官し、蕭何[ショウカ]に見出されて「国士無双」と評される。やがて劉邦から大元帥を拝命すると、別働隊を預かり、項羽に味方する魏、殷[イン]、趙、代、燕、斉を平定。垓下[ガイカ]の戦いで項羽を破って漢の天下統一を成し遂げる。だが統一後は、その実力を劉邦に恐れられ、謀反の罪で処刑された。
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【三国志14】管夷吾の武将能力値紹介

管夷吾(カンイゴ) 統率84 武力65 知力97 政治100 魅力85 春秋時代、斉の宰相。はじめ斉の公子・糾に仕える。公位継承をめぐり公子・小白(桓公)と争ったが敗れた。その後、桓公の側近である親友・鮑叔牙の推挙により宰相に就任。国政を担うようになると「衣食足りて礼節を知る」(人は豊かな生活を得れば自然と道徳心が生まれる)として、富国強兵策を推進。民生の安定や産業の振興など、多方面で合理的な改革を行い、斉を一大強国に変貌させた。軍事力を強化する一方で信義を重んじた献策を行い、諸侯の信頼を獲得すると、ついには桓公を覇者の地位に上らせた。
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【三国志14】岳飛の武将能力値紹介

岳飛(ガクヒ) 統率96 武力92 知力78 政治31 魅力95 南宋の武将。武穆。岳王。農家に生まれながらも文武に励み、辺境防衛の義勇軍に参加。数々の軍功を上げて頭角を現し、次第にその地位を高めた。その後、南宋に侵攻する金と対峙し、中原回復を目指して度々戦果を上げている。名声を高める一方で、他の官僚や軍閥との協調を欠いて次第に孤立。金との和平を主張する秦檜[シンカイ]が宰相に就任すると、無実の罪を着せられた処断された。その背中には「尽忠報国」と刺青されていたという。のちに名誉を回復し、現在は救国の英雄として関羽と共に武廟に合祀されている。
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【三国志14】霍去病の武将能力値紹介

霍去病(カクキョヘイ) 統率93 武力93 知力42 政治5 魅力84 前漢の驃騎将軍。大司馬。冠軍侯。景桓侯。大将軍・衛青の甥。年少の頃より武帝に目をかけられ宮中に出仕する。18歳のとき、衛青に従って匈奴討伐に出陣すると、天性の軍才により目覚ましい軍功を上げた。武帝の信任を得て驃騎将軍に任ぜられると、精鋭部隊を与えられて度々西域に出征。匈奴討伐に執念を燃やし、匈奴の諸王をことごとく打ち破って、前漢の西域支配の基盤を築いた。衛青を凌ぐ権勢を得て名声は高まるばかりだったが、病に倒れて24歳という若さで急逝。武帝は自らの陵の傍に墓を築かせ、その死を悼んだという。
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