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【三国志14】邵悌の武将能力値紹介

邵悌(ショウテイ) 統率22 武力16 知力72 政治65 魅力57 魏の官僚。【演義】263年、司馬昭が鍾会に蜀討伐戦を命じた際、「鍾会は野心家だから兵権を委ねるべきではない」と進言。鍾会と鄧艾が蜀を滅ぼした後、鄧艾に謀反の疑いがあると鍾会が上奏し、司馬昭が鄧艾逮捕の軍を起こすと、「鍾会に鄧艾逮捕を命じればよい」と進言する。司馬昭が「以前は鍾会が危険だと言ったではないか。今回の出兵は鍾会を討伐するためだ」と言うと、「以前の進言をお忘れかと思い、わざと言ったのです」と答えた。【正史】「以前の進言をお忘れかと云々」の記述はない。
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【三国志14】朱蓋の武将能力値紹介

朱蓋(シュガイ) 統率68 武力66 知力44 政治34 魅力40 魏の武将。【演義】記述なし。【正史】廬江で陳蘭と梅成が乱を起こした時、張遼、于禁らに従って討伐した。219年、樊城が関羽に包囲されると、殷署らと共に徐晃の援軍として派遣された。
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【三国志14】向寵の武将能力値紹介

向寵(ショウチョウ) 統率74 武力61 知力76 政治67 魅力71 蜀の武将。向朗の兄の子。【演義】諸葛亮の「出師の表」に登場。軍事に明るく、劉備からも評価されていたので、都督に推挙された人物と紹介される。諸葛亮が北伐に出発すると、御林軍(近衛)の総督として成都の守りについた。【正史】劉備の代に牙門将軍となる。夷陵の戦いで蜀軍が負けた際、向寵の軍営だけが無傷だった。240年、漢嘉郡の異民族を討伐中に戦死した。
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【三国志14】周瑜の武将能力値紹介

周瑜(シュウユ) 統率97 武力71 知力96 政治86 魅力94 孫策の義兄弟。妻は小喬。揚州の名士。【演義】孫策の江東進出戦に協力。孫策は死の間際、孫権に国外の事は周瑜と謀るよう遺言する。孫策の死後は孫権に仕え、魯粛を推挙した。曹操が江東に侵攻すると、劉備軍と結んで抗戦するよう主張。大都督となって孫権軍を率い、赤壁の戦いで曹操軍を大破する。その直後、曹操軍の江陵に進出するが、曹仁に苦戦し自らも負傷。結局、江陵は諸葛亮に奪われ、苦悶の内に死んだ。【正史】諸葛亮との謀略戦や狭量さは演義の虚構。赤壁での勝利も劉備軍への荊州南部委譲も周瑜の主導による。
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【三国志14】蒋済の武将能力値紹介

蒋済(ショウセイ) 統率50 武力43 知力85 政治77 魅力55 魏の幕僚。【演義】関羽が北上して曹仁を包囲した際、関羽の威勢を恐れて遷都しようとする曹操を司馬懿と共にいさめた。後に太尉となり、司馬懿が曹爽一派を掃討する政変を起こした際、司馬懿に協力して曹爽に兵権を返上させた。【正史】赤壁の戦いの後、揚州刺史・温恢を補佐する別駕[ベツガ]となり、対呉戦線で活躍した。曹爽から兵権を奪った際、免職にするだけだと伝えておきながら、曹爽一族が皆殺しになったことを気に病み、病死。「万機論」や「三州論」を著し、文武両面で優れた献策を重ねた。
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【三国志14】周魴の武将能力値紹介

周魴(シュウホウ) 統率56 武力41 知力80 政治75 魅力62 呉の鄱陽太守。周処の父。【演義】228年、偽って魏の曹休に投降し、呉が滅ぶ七つの理由を述べて、呉討伐軍を起こさせた。皖城[カンジョウ]に入った曹休に一度、計略ではないかと疑われるが、もとどりを切って見せ、曹休を信用させる。その後、石亭に進入した曹休は陸遜に大敗した。【正史】呉への不満を述べた七通の書状を魏に送り、内通を疑われて剃髪した。それを伝え聞いてた曹休は周魴の投降を信じた。石亭で曹休を破った後、裨将軍となる。鄱陽を13年間治め、優れた業績を挙げた。
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【三国志14】鍾進の武将能力値紹介

鍾進(ショウシン) 統率56 武力26 知力38 政治47 魅力40 魏の武将。鍾繇の弟。【演義】馬超が父の仇討ちのため攻め寄せた際、長安に籠もって抗戦した。長安城内には民衆に紛れた龐徳が潜入しており、その夜襲を受けて斬られる。守備する西門は開かれ、長安は陥落した。【正史】記述なし。
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【三国志14】習禎の武将能力値紹介

習禎(シュウテイ) 統率33 武力29 知力67 政治73 魅力69 劉備の幕僚。子に習忠。子孫に習鑿歯[シュウサクシ]。妹は龐林に嫁いだ。【演義】記述なし。【正史】軽妙洒脱で談論が上手く、その名声は龐統に次ぎ馬良より上と評された。曹操が荊州を制圧した時、妹と離れ離れとなる。劉備に従って入蜀し、益州平定後は各地の県令を経て広漢太守に昇進した。
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【三国志14】焦触の武将能力値紹介

焦触(ショウショク) 統率65 武力72 知力33 政治32 魅力39 袁煕の武将。【演義】曹操が袁譚を滅ぼすと、同僚の張南と共に曹操に降伏する。袁煕の下に逃げ込んだ袁尚を曹操が攻撃した際は、他の降将と共に袁尚兄弟を追走した。その後は曹操の南征に参加。長坂坡の戦いでは劉禅を抱いて逃げる趙雲を包囲するが、突破を許す。赤壁の戦いの緒戦で張南と共に孫権軍に挑むが、韓当に槍で突き殺された。演義ではこの人物を烏桓触と誤記している箇所がある。【正史】曹操に鞍替えする前、諸郡の太守や県の令長を集め曹操に味方することを強要した。
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【三国志14】習珍の武将能力値紹介

習珍(シュウチン) 統率64 武力68 知力51 政治42 魅力58 蜀の武将。習宏の兄。【演義】記述なし。【正史】弟と共に劉備に仕え、零陵北部尉として関羽に属した。219年、呂蒙が荊州に侵攻して関羽が討たれると、弟の助言に従い、捲土重来を期して一旦は呉に降伏。のち樊胄らと組んで挙兵し、七県を占拠して邵陵[ショウリョウ]太守を称したが、潘濬との戦いに敗れ自害した。
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