三国志13

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【三国志13】魏諷 の武将能力値紹介

魏諷(ギフウ) 統率52 武力23 知力72 政治78 後漢の臣。【演義】記述なし。【正史】大衆を巧みに動かす才能を買われ、鍾繇に召し出された。曹操が劉備との漢中攻防戦で出征中に、衛尉の陳禕と共謀して鄴を乗っ取る計画を立てる。しかし、恐れを抱いた陳禕が曹丕に密告したため、曹丕に捕らえられ処刑された。連座した者は数十人に及び、鍾繇も責任を問われて免職となった。
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【三国志13】韓胤 の武将能力値紹介

韓胤(カンイン) 統率26 武力29 知力65 政治54 袁術の幕僚。【演義】袁術の子と呂布の娘の縁談をまとめる使者として呂布を訪ねた。袁術との同盟を推進しようとする陳宮と意気投合するが、劉備や曹操と結ぶ陳珪父子に妨害され、呂布に捕らえられる。再び派遣された袁術の使者が呂布に斬られると、首かせをつけたまま許昌に護送され、曹操によって処刑された。【正史】呂布が袁術との縁談に応じたため、呂布の娘を迎えた。しかし、陳珪から曹操と敵対する危険性を説かれた呂布に連れ戻され、許昌に護送されて曹操に斬られた。
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【三国志13】郭奕 の武将能力値紹介

郭奕(カクエキ) 統率33 武力29 知力70 政治76 魏の謀臣・郭嘉の子。【演義】郭嘉の死後、曹操の館に引き取られた。【正史】郭嘉が病死すると、父の後を継いだ。太子文学となるが早くに死亡。親しかった王昶に「あかぬけて、理解が早く博識だった。反面、度量の広さが不足し、他人を尊敬したり軽蔑したりするのが極端だった。我が子にはこのようになって欲しくない」と評されている。ただし裴松之は、王昶の批評は一方的な見方で、友人の悪評を後世に残すのは道義に反すると述べている。
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【三国志13】王双 の武将能力値紹介

王双(オウソウ) 統率67 武力88 知力19 政治22 魏の武将。身長9尺。60斤の大刀、鉄芯の入った弓、流星鎚を使う猛将。曹仁の濡須攻めに参加し、朱桓に大敗した王双とは別人。【演義】諸葛亮の第2次北伐で、曹真が曹叡に推薦して抜擢された。陳倉を包囲する蜀軍を攻め、謝雄、龔起を討ち取り、張嶷に重傷を負わせる。蜀軍が陳倉から撤退すると追撃したが、魏延に斬り殺された。【正史】諸葛亮の第2次北伐で、食糧が尽きて撤退する諸葛亮の軍を騎兵を率いて追撃し、戦死した。
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【三国志13】袁遺 の武将能力値紹介

袁遺(エンイ) 統率56 武力40 知力73 政治76 袁紹の従兄。後漢の山陽太守。【演義】曹操が発する董卓打倒の呼びかけに応じた諸侯の1人。虎牢関の戦いで、呂布に敗れた王匡を橋瑁と共に救った。【正史】袁術の兄。曹操から「成人してからもよく学問に励むのは、自分と袁遺だけだ」と称される。袁紹から揚州刺史に推挙されるが、支配地を巡って袁術と戦い、敗北。逃亡先で兵士に殺された。
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【三国志13】蔡邕 の武将能力値紹介

蔡邕(サイヨウ) 統率27 武力16 知力81 政治88 後漢の議郎。蔡琰の父。羊祜の祖父。【演義】霊帝を補佐し、大地震など災害の連続する原因を尋ねられると、宦官の政治への干渉を諫める意見書を上奏したため宦官に逆恨みされ、朝廷を追い出されている。のち董卓が洛陽を占拠すると不本意ながらも重用された。董卓の死に際し、その死体にすがって泣いたため、王允に咎められ獄死した。【正史】博学で音楽にも通じた。宦官に恨まれて徒刑(労役)を科され、董卓に呼び戻される。董卓の死を聞き、顔色を変えただけで王允に処罰されている。
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【三国志13】董昭 の武将能力値紹介

董昭(トウショウ) 統率34 武力25 知力80 政治82 魏の官僚。眉目秀麗な見識者。【演義】袁紹、張楊に仕えた後、献帝に正議郎として仕える。曹操が献帝を擁護すると、曹操に許昌への遷都を進言。212年、曹操に魏公の位と九錫[キュウシャク]を賜るよう上奏した。曹仁が関羽に包囲されると、孫権の荊州侵攻を関羽に知らせ、後退する関羽を背後から討つ策を提案。曹丕の代には大鴻臚、曹叡の代には司徒に就任した。【正史】袁紹の下では鉅鹿[キョロク]太守、魏郡太守を歴任。曹操が袁尚と烏丸の蹋頓[トウトン]を討伐した際、平虜、泉州の二運河を堀り、兵糧を海上輸送して支援した。
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【三国志13】程秉 の武将能力値紹介

程秉(テイヘイ) 統率16 武力15 知力71 政治72 呉の官僚。鄭玄[テイゲン]の門人。【演義】孫策の死後、後を継いだ孫権に招かれた。赤壁の戦い前、諸葛亮が劉備と孫権の同盟を結ぶため呉に来訪した際、張昭らと共に諸葛亮に論戦を挑み論破された。222年、関羽と張飛の復讐のために劉備が荊州に侵攻してくると、張飛を討った范彊[ハンキョウ]、張達の身柄を劉備に引き渡す使者となる。劉備に荊州と孫尚香の返還を提案し和睦を勧めるが、劉備の敵意は削げなかった。【正史】交州で劉煕と交流し、五経を学んだ。士燮に仕えていたが、孫権に招かれ太子太傅となる。
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【三国志13】張遼 の武将能力値紹介

張遼(チョウリョウ) 統率94 武力92 知力78 政治58 呂布の武将。後に曹操に仕える。張虎の父。【演義】呂布が下邳で敗死した時に捕らえられ、劉備と関羽の勧めで曹操に登用される。曹操軍が関羽を下邳に包囲した時は関羽に降伏を説いた。官渡の戦いの後、烏丸討伐を指揮し、白狼山で蹋頓を討つ。赤壁の戦い後は合肥に入り、魏呉国境を守る。215年、李典、楽進と共に逍遥津[ショウヨウシン]で孫権軍を大破し、その名を聞けば泣く子も黙ると恐れられた。224年、曹丕に従って呉を攻めた際に丁奉の矢を受け、間もなく死亡した。【正史】222年、曹休と共に呉の呂範を破り、直後に病死。
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【三国志13】張紘 の武将能力値紹介

張紘(チョウコウ) 統率24 武力22 知力86 政治95 呉の幕僚。張昭と共に「二張」と称された策士。【演義】孫策が江東に進出する直前、周瑜の勧めで張昭と一緒に招かれた。孫策が江東を制覇すると、成果を献帝に上奏するため許昌へ向かい、曹操と会見。帰国後は顧雍を推挙し、孫策の後を継いだ孫権を人材登用面で補佐した。臨終の際、秣陵に拠点を移すように遺言。孫権はこれに従い、秣陵を建業と改めた。孫策や孫権が血気にはやって前線に出ようとするのをいさめ、赤壁の戦いの前は曹操との交戦に反対するなど、穏健派の代表だった。【正史】秣陵への遷都を献策し、孫権が実行した後に病死。
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