劉永(リュウエイ):父 劉備の遺言「諸葛亮を父と思え!」

劉永 公寿とは?

劉永(リュウエイ)は、父は蜀の先主(初代皇帝)劉備で、母は三国志演義では呉懿の妹である穆皇后となっています。
蜀の後主 劉禅とは異母兄弟で兄です。弟には劉理がいます。

人物名劉永 公寿(リュウエイ コウジュ)
略歴?年 生年不明。劉備の次男として生まれる。
221年 魯王
223年 白帝城で病に倒れた父 劉備を見舞う。
229年 甘陵王
263年 蜀降伏した後は洛陽へ移り住む。奉車都尉に任じられる。
?年 没年不明

父 劉備の遺言を聞く劉永、「諸葛亮を父と思え」

西暦223年 呉に敗れて床に伏した劉備は、病状が悪化していく中で死期を悟りました。

遺言を託すために諸葛亮たちを劉備のいる白帝城に呼び寄せます。

諸葛亮らは皇太子の劉禅をそのまま成都に残させて、次男の魯王 劉永、そして梁王 劉理と一緒に劉備のもとへ駆けつけます。

重い病気の劉備は諸葛亮に対して、

劉備「もし、劉禅を補佐してなんとかなるのであれば、劉禅を補佐してほしい。
もし、ダメであれば、劉禅のかわりにおまえ(諸葛亮)が君主になってほしい。」

と、自分亡き後のことを全て託しました。この遺言は、蜀を諸葛亮に全面委任するということです。

劉永たちに対しても劉備は、

劉備「劉永たちよ、この父(劉備)の言葉をよく覚えとけ!
父亡き後は、劉禅・劉永・劉理のおまえたち三兄弟は、丞相(諸葛亮)を父と思って仕えよ!」

と言いつけています。

ちなみに、この時に劉禅は17才でしたので、弟の劉永もまた幼かったと思われます。

いずれにしても、まだ成人していない子供の劉永は、諸葛亮を父と思い、決して怠慢なことをしないようにと父 劉備から遺言されています。

宦官 黄皓によって遠ざけられてしまう!

劉禅が皇帝になってしばらくすると、宦官の黄皓(コウコウ)は劉禅に近づいていきます。

劉永と黄皓は不仲で、黄皓は皇帝の劉禅に劉永の悪口を吹き込んでいきます。

このため、劉禅は次第に劉永を避けるようになり、十余年にも渡って、朝廷での謁見を許しませんでした。

そして時は経ち、263年 蜀は魏からの侵攻を防げれずに、魏へ降伏します。

降伏後、劉永は避けられていた兄 劉禅と共に洛陽へ移されて、奉車都尉(ホウシャトイ、皇帝の車の管理官)に任じられています。