三国志14

武将

【三国志14】甯随の武将能力値紹介

甯随(ネイズイ) 統率67 武力69 知力72 政治41 魅力52 蜀の武将。【演義】姜維の副将。263年、鍾会と鄧艾が蜀討伐戦を起こした際は姜維と共に沓中[トウチュウ]で屯田していた。救援に駆けつけようとした姜維が諸葛緒に退路を断たれた時、雍州を攻撃する振りをして諸葛緒の注意をそらし、その間に剣閣へ向かう策を進言した。【正史】記述なし。
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【三国志14】杜預の武将能力値紹介

杜預(ドヨ) 統率86 武力30 知力85 政治80 魅力81 晋の武将。杜畿の孫、杜恕の子。司馬懿の女婿。【演義】羊祜の遺言で鎮南大将軍、都督荊州諸軍事に任ぜられる。279年、呉討伐軍を指揮し、江陵、武昌を連破。呉を降伏させた。その際、慎重論を唱える胡奮に「竹を割るような勢いで進軍すれば、呉は戦わずに降伏する」と諭したことが「破竹の勢い」の語源となる。「春秋左氏伝」を愛読し、「左伝癖」と自称した。【正史】父の杜恕が司馬懿と対立したため、政界への参加は遅かった。鍾会の蜀討伐戦に副官として参戦。著作に「春秋左氏経伝集解」がある。馬術、武術は不得手。
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【三国志14】杜襲の武将能力値紹介

杜襲(トシュウ) 統率73 武力58 知力77 政治71 魅力64 魏の武将。【演義】定軍山の戦いで夏侯淵が敗死すると、張郃と共に敗残兵をまとめて退却させた。【正史】小役人として曹操に仕えていたが、優れた政治手腕で頭角を現し、鍾繇や荀彧の推挙を得て重臣に取り立てられた。魏の歴代君主から信頼を受け、曹叡からは大将軍軍師に任じられている。
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【三国志14】杜氏の武将能力値紹介

杜氏(トシ) 統率16 武力3 知力50 政治48 魅力67 呂布の武将・秦宜禄の妻。秦朗の母。後に曹操の側室。【演義】記述なし。【正史】秦宜禄が使者として袁術の元へ出向いている間、下邳で留守を守っていたが、秦宜禄は袁術により別の女性と結婚させられてしまい、離別する。呂布が下邳で敗死すると、関羽は杜氏を妻にしたいと曹操に願い出たが、曹操は杜氏の美貌を知って自分の側室に迎え入れた。連れ子の秦朗は曹操の宮中で育てられ、歴代の主君から寵愛を受けて権勢を振るった。
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【三国志14】杜瓊の武将能力値紹介

杜瓊(トケイ) 統率50 武力38 知力63 政治58 魅力60 蜀の幕僚。【演義】諸葛亮らと共に、劉備に皇帝になる決意をさせた幕僚の一人。劉禅即位後まもなく魏が軍を動かすと、病と称して出仕してこない諸葛亮の邸宅を訪れた。230年、蜀領に侵攻した曹真と司馬懿が長雨で撤退した時、魏延、陳式、張嶷と共に追撃したが、魏延と陳式の命令違反で大敗した。【正史】任安に師事して図讖[トシン]を学んだ。はじめ劉璋に召し出され、劉備が益州を平定すると議曹従事になり、劉禅の代には要職を歴任した。著作に「韓詩章句」。
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【三国志14】杜畿の武将能力値紹介

杜畿(トキ) 統率66 武力32 知力74 政治87 魅力76 魏の官僚。杜恕の父、杜預の祖父。【演義】記述なし。【正史】荀彧の推薦で曹操に仕える。曹操が河北を平定した後、河東太守を拝命。農業生産の回復、軍事訓練、学校開設などに尽力し、のちに河東は多くの儒学者を輩出する。211年、馬超と韓遂の反乱を曹操が鎮圧した際、兵糧の調達をすべて河東郡でまかない、漢の蕭何[ショウカ]に並び称された。魏建国後は尚書僕射などを歴任。曹丕が呉を攻めた際は留守を任される。その後、皇帝の御座船建造の指揮を執るが、試走中に船が転覆し溺死。
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【三国志14】鄧龍の武将能力値紹介

鄧龍(トウリュウ) 統率54 武力67 知力36 政治26 魅力33 黄祖の部下。【演義】孫権が黄祖を攻めた際、陳就とともに先鋒として迎撃に出たが、甘寧によって討ち取られた。【正史】黄祖の命を受けて柴桑を攻めたが、孫権軍の周瑜に敗れて捕らえられた。
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【三国志14】鄧茂の武将能力値紹介

鄧茂(トウモ) 統率61 武力76 知力29 政治17 魅力35 黄巾の武将。【演義】程遠志の副将。5万の兵を率いて涿郡に攻め寄せ、初陣の劉備軍と戦う。開戦早々、張飛と渡り合い、蛇矛でひと突きにされた。【正史】記述なし。
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【三国志14】鄧方の武将能力値紹介

鄧方(トウホウ) 統率71 武力68 知力59 政治52 魅力55 蜀の武将。【演義】記述なし。【正史】劉備入蜀の際、荊州の従事として従った。劉備が益州を平定すると、朱提太守などを歴任後、南昌県に駐屯して南中の異民族の総督を任された。少数をもって多数を防ぎ、よく辺境において任を全うしたと評されている。
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【三国志14】董扶の武将能力値紹介

董扶(トウフ) 統率5 武力4 知力67 政治56 魅力68 後漢の儒学者。【演義】記述なし。【正史】太学で儒学を学ぶ一方、同郷の楊厚に師事して図讖[トシン]を学んだ。何進に召し出されて侍中に任命され、朝廷では「儒宗[ジュソウ]」と呼ばれて尊敬された。劉焉が中央の混乱を避けて交州牧になることを画策していた時、益州に天子の気があると助言。これを聞いた劉焉は益州牧になることを願い出て認められ、董扶も劉焉の入蜀に同行した。
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