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【三国志14】荀正の武将能力値紹介

荀正(ジュンセイ) 統率57 武力63 知力33 政治20 魅力34 袁術の武将。【演義】荀彧の駆虎呑狼の計によって攻め寄せた劉備軍を迎撃する際、紀霊の副将として出陣する。紀霊に代わって関羽に挑むが、すれ違いざまに斬り捨てられた。【正史】記述なし。
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【三国志14】沙摩柯の武将能力値紹介

沙摩柯(シャマカ) 統率64 武力84 知力25 政治14 魅力46 五渓の蛮族の王。鉄蒺藜骨朶[テツシツレイコツダ]を使う。【演義】蜀帝・劉備が関羽の復讐のために呉を攻めた夷陵の戦いで蜀軍に参戦。病気をおして出陣した呉の甘寧を射殺した。また、呉の淳于丹が夜襲を仕掛けてきた際は、伏兵となって退路を断った。しかし、陸遜の火計により蜀軍が敗退し、一騎で逃走していると周泰に出くわす。20合あまり渡り合うが、力尽き斬られた。【正史】夷陵の戦いで蜀軍に加わった異民族の首領。陸遜の火攻めに遭って斬られた。甘寧を討ったという記述はない。
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【三国志14】車冑の武将能力値紹介

車冑(シャチュウ) 統率49 武力52 知力40 政治58 魅力50 後漢の徐州刺史。【演義】車騎将軍。曹操と劉備が呂布を討った後、劉備の代わりに徐州を治めた。その後、袁術討伐のために徐州に入った劉備を、曹操の命で討伐することになり、陳登に相談をもちかける。しかし、劉備に味方する陳登によって計画が漏れ、関羽と張飛に斬られた。【正史】曹操に背いた劉備に斬られたという記述のみ。
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【三国志14】荀諶の武将能力値紹介

荀諶(ジュンシン) 統率19 武力25 知力78 政治77 魅力67 冀州牧・韓馥の幕僚。後に袁紹に仕える。荀彧の弟。【演義】公孫瓚が冀州に来襲するという報せを受けた韓馥が袁紹を招こうとした際、辛評と共に善後策を練った。その後、冀州に入った袁紹にそのまま仕える。官渡の戦いの直前、袁紹が幕僚たちに曹操と戦うべきか否かを問うた時、交戦を支持し、袁紹は曹操との戦いを決断した。【正史】最初から袁紹の幕僚。冀州を袁紹に譲るよう、韓馥を説得した。「魏書」では荀彧の弟とあるが、「荀氏家伝」では荀彧の兄とされている。
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【三国志14】謝旌の武将能力値紹介

謝旌(シャセイ) 統率65 武力76 知力34 政治32 魅力43 呉の武将。【演義】関羽の復讐のため、劉備が宜都[ギト]に攻め込んだ際、孫桓に従って迎撃。張苞と30余合渡り合うが、かなわず敗走する。翌日、孫桓を守るために張苞の前に立ちふさがり、ひと突きで討たれた。【正史】陸遜が関羽を破って荊州を制圧した後、李異と共に3千の兵を率いて蜀軍を攻撃。詹晏[センアン]、鄧輔、郭睦[カクボク]らを破り、陳鳳を捕らえた。さらに、陸遜の指揮下で文布、鄧凱を撃破した。荊州に攻め寄せた劉備と交戦したという記述はない。
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【三国志14】射堅の武将能力値紹介

射堅(シャケン) 統率28 武力34 知力66 政治72 魅力71 劉備の官僚。射援の兄。【演義】記述なし。【正史】若くして名声があり、朝廷に招聘されて後漢の黄門侍郎となった。長安周辺が飢饉によって混乱した時、弟と共に劉璋を頼って入蜀し、劉璋から長史に任命された。劉備が益州を平定すると、広漢太守、蜀郡太守など重職を歴任した。
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【三国志14】謝景の武将能力値紹介

謝景(シャケイ) 統率15 武力23 知力57 政治69 魅力66 呉の官僚。【演義】記述なし。【正史】孫登の賓客として招かれた。のち張承の推挙で豫章太守に任じられ、その評価は顧邵に次いだ。孫登が死ぬと、悲しみのあまり官を棄てて葬儀に駆け付ける。この時、許可なく任地を離れたことで自らを弾劾したが、孫権はよく慰め、原職へ戻ることを許した。
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【三国志14】射援の武将能力値紹介

射援(シャエン) 統率45 武力37 知力69 政治70 魅力77 蜀の官僚。射堅の弟。皇甫嵩の娘婿。【演義】記述なし。【正史】若くして名声があり、皇甫嵩に才を見込まれて、その娘を妻とした。長安周辺が飢饉によって混乱した時、劉璋を頼って入蜀した兄に同行。劉備が益州を平定すると、兄と共に仕えた。諸葛亮に評価されて丞相祭酒に任命され、のち従事中郎まで昇進した。
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【三国志14】士武の武将能力値紹介

士武(シブ) 統率45 武力42 知力57 政治68 魅力66 士燮の弟。南海太守。【演義】記述なし。【正史】交州刺史の朱符が現地の人間から恨みを買って殺害される事件が起きた時、その混乱を収拾するため、士燮は弟たちを各地の太守にすることを朝廷に上奏した。それが認められたため、士武は南海太守となった。早くして病死したという。
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【三国志14】司馬朗の武将能力値紹介

司馬朗(シバロウ) 統率20 武力21 知力71 政治82 魅力83 司馬懿、司馬孚の兄。司馬遺の父。【演義】曹操に仕え、丞相主簿となる。【正史】董卓の長安遷都によって洛陽が荒廃した際、一族を引き連れて難を逃れた。後に曹操に仕え、堂陽太守、兗州刺史などの地方官を歴任し、善政を敷いて領民から慕われた。217年、夏侯惇、臧覇と共に呉討伐戦に参加。疫病が蔓延すると、自ら巡察して医薬を与えたが、病気にかかって死亡した。曹叡の代、司馬孚の子・司馬望が後継者となる。崔琰と親しかった。
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