三国志13

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【三国志13】全尚 の武将能力値紹介

全尚(ゼンショウ) 統率2 武力4 知力12 政治41 呉の重臣。全紀の父。妻は孫峻の姉で、孫綝の従姉。娘が第2代皇帝・孫亮の皇后となる。【演義】子の全紀が呉帝・孫亮から、暴政を振るう孫綝を討伐するよう命じられたことを妻に打ち明ける。しかし、妻が孫綝に密告したため、計画が事前に発覚。同じく孫綝討伐を命じられていた劉丞と共に、一族もろとも処刑された。孫亮もまた、この事件で帝位を廃された。【正史】太常。孫綝討伐の計画が発覚後、家族と共に零陵に流され、処刑された。
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【三国志13】審配 の武将能力値紹介

審配(シンパイ) 統率80 武力60 知力83 政治73 袁紹の幕僚。【演義】袁紹が曹操との開戦を決めると、逢紀と共に黎陽に出陣。しかし、荀彧から「我意が強く無策」と評された通り、同僚の許攸らと対立し、官渡の戦いで敗北した。袁紹が死ぬと、逢紀と共に袁尚を後継者に迎え、袁譚、郭図と対立。後に曹操が北上した時、陳琳と共に鄴に籠もって奮戦し、曹操に寝返った辛毘の一族を皆殺しにする。しかし、甥の審栄が城門を開いたため、徐晃に捕らえられ、袁尚のいる北の方角を向いて斬られた。【正史】逢紀と仲が悪かったが、和解して親しくなった。
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【三国志13】諸葛喬 の武将能力値紹介

諸葛喬(ショカツキョウ) 統率62 武力27 知力75 政治70 呉の諸葛瑾の次男。諸葛恪の弟。蜀の諸葛亮の甥。元の字は仲慎。諸葛亮の養子となる。【演義】記述なし。【正史】兄の諸葛恪と並んで評判が高く、才能では兄に及ばないが、性質では兄より優れていると評された。まだ子が無かった諸葛亮から請われて養子となり、蜀に入って字を伯松と改める。227年、諸葛亮が北伐を起こすと漢中に同行し、霍弋と共に記室(丞相事務官)として各軍を視察して回った。228年に死亡。
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【三国志13】荀勗 の武将能力値紹介

荀勗(ジュンキョク) 統率8 武力19 知力77 政治72 魏の従事中郎。【演義】蜀の姜維が沓中[トウチュウ]で屯田した際、姜維暗殺を主張する賈充に反対し、蜀の宮中腐敗を理由に軍事攻撃を主張。鄧艾を主将、鍾会を副将に蜀討伐軍を起こすように進言し、司馬昭に採択された。その後、晋に仕え、羊祜が呉討伐作戦を上奏した際、賈充、馮紞[フウタン]と共に司馬炎をいさめ、作戦を中止させた。【正史】晋では侍中、尚書令を歴任し、賈充らと晋律を制定した。また、張華と共に古書を整理し、経、子、史、集の四類に分類した。
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【三国志13】周昂 の武将能力値紹介

周昂(シュウコウ) 統率74 武力65 知力65 政治49 袁紹の武将。周昕の弟。【演義】記述なし。【正史】袁紹の命を受け、陽城(袁術の指示で董卓と戦っていた孫堅の拠点)を攻め落とす。袁術が孫堅と公孫越を派遣して反撃してくると、迎え撃って公孫越を討った。後に九江太守となるが、袁術軍の孫賁[ソンホン]に攻められ、陰陵で敗れた。
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【三国志13】士匡 の武将能力値紹介

士匡(シキョウ) 統率58 武力45 知力64 政治58 士壱の子。呉の中郎将となる。【演義】記述なし。【正史】従兄弟にあたる士徽が反乱をした時、呂岱に頼まれて罪に服するよう士徽を説得した。だが、士徽に連座して庶民に落とされた。
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【三国志13】温恢 の武将能力値紹介

温恢(オンカイ) 統率62 武力36 知力74 政治86 温恕[オンジョ]の子。温生の父。魏の臣。【演義】記述なし。【正史】孝廉に推挙され、地方官として功績を挙げた。曹操が赤壁の戦いから帰還する際に揚州刺史となり、蒋済、張遼、楽進らと共に合肥[ガッピ]方面で孫権軍を防いだ。219年に孫権が合肥を攻めた時、自らの任地よりも関羽の北上を警戒し、その読み通りとなった。曹丕即位後、侍従、魏郡太守となる。後に涼州刺史となるが、赴任の途上で病に倒れ、惜しまれながら死んだ。
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【三国志13】屈原 の武将能力値紹介

屈原(クツゲン) 統率68 武力28 知力84 政治89 戦国時代の楚の政治家、詩人。諱は平、または正則で、字が原。博聞強記で治乱興亡の事跡に明るく、文章に長けていた。楚の宗族で、楚の懐王に信任されて左徒、三閭大夫[サンリョタイフ]となる。傾襄王のとき、中傷にあって江南に追放され、時世を憂えて悩み苦しんだ末、秦軍が楚の都・郢[エイ]を落としたことで楚国の将来に絶望。汨羅[ベキラ]の淵に身を投じ、入水自殺した。「楚辞」の代表的作家で、その抒情的叙事詩「離騒」は後世の文学に大きな影響を与えた。ほかに「天問」「九歌」などの詩が有名。
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【三国志13】王戎 の武将能力値紹介

王戎(オウジュウ) 統率57 武力36 知力72 政治55 王渾(玄沖とは別人)の子。竹林の七賢の最年少者。【演義】晋の建威将軍。279年の呉討伐戦に参戦。武昌に進軍し、先に石頭城に入城していた王濬と合流した。【正史】幼少時から大人顔負けの聡明さを発揮。鍾会の推薦で司馬懿に取り立てられた。河東太守、荊州刺史などを歴任。晋の恵帝の時に司徒となった。しかし、政務には関心がなく、自己の利益に執心していた。
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【三国志13】許汜 の武将能力値紹介

許汜(キョシ) 統率8 武力23 知力65 政治71 呂布の武将。【演義】下邳城が曹操に包囲されると、呂布の娘と袁術の息子との縁談を持ちかけ、袁術に救援を求めるよう提案する。王楷と共に袁術の元へ救援要請に赴くが失敗した。【正史】呂布の死後、劉表の食客となる。劉備らと天下の士について議論をした際、陳登を「自分は寝台で休み、客人を床に寝かせる傲慢な者」と批判するが、劉備に「あなたは天下が乱れているときに邸宅を求めて役に立つ進言もしない。私ならば百尺の高さの櫓で休み、あなたを地べたに寝かせただろう」と返された。
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