劉諶(リュウシン)とは?
劉諶は、蜀の後主(第二代皇帝)の劉禅の五番目の子です。蜀の皇族。
劉禅の子七人のうちで、唯一聡明だった
蜀の皇帝の劉禅には、七人の子がいました。
長男の劉璿、次男の劉瑤、三男の劉琮、四男の劉瓚、そして五番目の子が劉諶です。
その下には、劉恂と劉璩です。
劉禅の子七人のうちで、劉諶だけが幼い時から聡明で、あとの六人は善良だけどひ弱でした。
曹操の子の曹丕・曹彰・曹植たちと比べると、劉禅の子たちは厳しいですね。
魏に蜀が降伏することを反対する
263年、ついに「魏軍が蜀の成都に近づきつつある。」との知らせに、蜀の朝廷は大騒ぎとなります。
厳しい状況であると判断した譙周は劉禅に、降伏するように勧めます。
皇帝の劉禅は、譙周の進言に従い、魏に降伏しようとします。
ところが、五番目の子の劉諶は
劉諶「譙周!この死にそこないの腐れ儒者め!」
と、譙周を怒鳴りつけて、魏へ降伏することを劉諶は反対しました。
劉禅は、
劉禅「おまえはまだ子どもだから、天の時ということをわかっていない!」
と、劉諶を逆に叱りつけます。
劉諶はみずからの額を床に打ちつけて泣きながらに、劉禅に進言します。
劉諶「先帝(劉備)は容易に蜀をつくったのではありません。
それを降伏するとは、わたくしには死んでもできない屈辱です。」
劉諶、劉備を祀った廟の前で自殺する
結局、ついに劉禅は魏への降伏文書を届けてしまいます。
このことに激怒した劉諶は、妻の崔夫人に話します。
劉諶「明日、蜀はとうとう滅亡する。
その前にわたしは死んで、先帝(劉備)にお会いする!」
夫の劉諶が死ぬといっているので、妻の崔夫人は
妻の崔夫人「そうですとも、そうですとも。」
といって、妻の崔夫人はみずからの頭を柱に激突させて死んでしまいます。
妻は死んでしまったので、劉諶は三人の息子を殺し、劉備を祀った昭烈廟の前で、自殺しました。