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【三国志14】董和の武将能力値紹介

董和(トウカ) 統率57 武力34 知力73 政治87 魅力72 劉璋の幕僚。後に劉備に仕える。董允の父。【演義】劉璋の下で益州太守を務める。蜀が劉備の攻撃を受けると、張魯に加勢を求めるよう進言した。劉備が成都に迫る間も徹底抗戦を主張したが、結局、劉璋は降伏。その後は劉備に仕え、諸葛亮を補佐した。【正史】後漢末期、一族を率いて益州に移住し、劉璋に任用される。質素倹約に努め、異民族とも融和を図ってよく統治した。劉備が蜀を平定した後は劉備に仕え、諸葛亮を補佐。直言の士として諸葛亮から信頼された。
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【三国志14】陳脩の武将能力値紹介

陳脩(チンシュウ) 統率60 武力56 知力38 政治31 魅力52 呉の武将。陳武の子。異母弟に陳表。【演義】記述なし。【正史】19歳の時に孫権に召し出されて別部司馬に任ぜられ、兵500を率いた。のち孫権が功臣たちの子孫に恩賞を与える機会があると、都亭侯に封ぜられ、解煩[カイハン]督に任命された。
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【三国志14】陳就の武将能力値紹介

陳就(チンシュウ) 統率58 武力65 知力32 政治28 魅力35 黄祖の部下。【演義】孫権が黄祖を攻めた際、鄧龍とともに先鋒として迎撃に出たが、呂蒙によって討ち取られた。【正史】都督の地位にあった。水軍を率いて孫権の軍勢を迎撃したが、呂蒙に討たれた。陳就の死を聞いた黄祖は城を捨てて逃げ出したが、討ち取られた。
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【三国志14】董允の武将能力値紹介

董允(トウイン) 統率47 武力28 知力78 政治91 魅力73 董和の子。諸葛亮、蒋琬、費禕と共に蜀の「四相」。【演義】諸葛亮が北伐中、郭攸之、費禕と共に留守を任される。諸葛亮の死後、魏延と楊儀が対立した時は楊儀を支持。魏延を説得しようと漢中に赴くが、到着した時にはすでに魏延は馬岱に討たれていた。【正史】劉備が劉禅を太子に立てた際、劉禅の教育を任される。諸葛亮の死後も劉禅を補佐し、黄皓ら悪臣の台頭を抑えた。輔国大将軍、侍中守尚書令などを歴任し、大将軍となった親友・費禕の次官として国政を担当。董允の死後、黄皓が政権を握り、蜀は滅亡への道を歩む。
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【三国志14】陳寿の武将能力値紹介

陳寿(チンジュ) 統率12 武力22 知力60 政治75 魅力49 蜀の官僚。後に晋に仕える。正史「三国志」の著者。【演義】記述なし。【正史】蜀の譙周に師事し、「史記」「漢書」などを学ぶ。蜀が滅亡した後、羅憲の推薦を受け、晋に仕えた。「諸葛亮集」「古国志」を著わして張華に評価され、「三国志」を編纂。父は陳式という説や、街亭で敗北した馬謖の参軍という説(いずれも諸葛亮に罰された)もあるが不明。また、諸葛亮の子・諸葛瞻に疎まれていたという説もある。これらのことから「三国志」では諸葛亮や諸葛瞻を低く評価しているともいわれている。
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【三国志14】滕胤の武将能力値紹介

滕胤(トウイン) 統率29 武力41 知力71 政治76 魅力64 呉の官僚。滕冑[トウチュウ]の子。【演義】太常卿。丞相の諸葛恪と対立し、253年、孫峻と共謀して諸葛恪を討つ。後に大司馬となるが、丞相の孫綝に殺された。【正史】同郷で姻戚関係があった劉繇の下に身を寄せる。父が孫権と親しかったため、孫権が呉王になると厚遇され公主を妻に迎えた。孫権の死後、遺命で諸葛恪と共に次帝・孫亮の補佐に当たる。後に孫綝が実権を握ると、呂拠と共に孫綝を討伐しようとするが、発覚して殺された。諸葛恪とは親友で諸葛恪暗殺には荷担していない。
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【三国志14】陳祗の武将能力値紹介

陳祗(チンシ) 統率42 武力25 知力65 政治81 魅力23 蜀の臣。【演義】記述なし。【正史】許靖の親戚で許靖に引き取られ養育される。謙虚であるが威厳のある容姿をしており、天文や占いなど多芸に優れ、それを費禕に評価されて董允の死後の侍中となった。しかし、費禕の死後、国外にいることの多かった姜維に替わって劉禅を補佐し、宦官の黄皓と結託して暴政を敷いた。
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【三国志14】土安の武将能力値紹介

土安(ドアン) 統率52 武力63 知力2 政治2 魅力17 烏戈[ウカ]国の王・兀突骨の武将。【演義】蜀軍に六度捕らえられて六度解放された孟獲は、帯来洞主の進言で烏戈国の兀突骨に援軍を要請する。土安は兀突骨らと共に藤甲軍3万を率いて出陣。藤甲軍が火に弱いことを見抜いた諸葛亮の計略によって盤蛇谷[バンダコク]に誘い込まれ、火攻めを受けて焼死した。【正史】記述なし。
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【三国志14】陳騫の武将能力値紹介

陳騫(チンケン) 統率72 武力71 知力65 政治61 魅力50 魏、晋の武将。陳矯の次男。陳本の弟。【演義】諸葛誕が反乱を起こすと、安東将軍として反乱討伐軍の副先鋒となる。諸葛誕を援護するため呉軍が攻め寄せると、正先鋒の王基と共に呉軍と交戦。鍾会の策により、物資に釣られた呉軍を伏兵で大破した。後に司馬炎が晋王となった時、車騎将軍に任ぜられた。【正史】尚書の時、詩を作るのが遅くて罷免されそうになったことがある。蜀滅亡後、旧蜀臣の羅憲が呉の陸抗、歩協らに攻められた時、羅憲の救援要請を受けて胡烈に援護させた。晋朝成立の功臣で、太傅まで昇った。
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【三国志14】田豫の武将能力値紹介

田豫(デンヨ) 統率80 武力72 知力80 政治78 魅力75 魏の武将。【演義】234年、諸葛亮の第5次北伐に呼応して呉が魏に攻め寄せた際、襄陽の守りに加勢した。【正史】劉備に仕え、高く評価されるが、母親が老齢だったため帰郷。その後、公孫瓚に仕官する。公孫瓚滅亡後は曹操に仕え、県令太守を歴任した。218年には曹彰の烏桓討伐に参加し、南陽太守に昇進。曹丕即位後も北方異民族の防衛に当たり、烏桓王・骨進を斬って威名を轟かせた。234年に呉軍が攻め寄せた際は汝南太守として防衛に当たる。曹芳の代には并州刺史、衛尉を歴任した。
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