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【三国志13】徐晃 の武将能力値紹介

徐晃(ジョコウ) 統率88 武力91 知力74 政治48 魏の武将。大斧の使い手。【演義】楊奉の配下だったが、満寵に説得されて曹操に仕える。呂布討伐戦では陳宮を捕らえた。官渡の戦いでは顔良、文醜に敗れるが、烏巣を急襲して勝利に貢献した。その後も赤壁、渭水、漢中などで転戦し、関羽が樊城[ハンジョウ]を包囲した際は迎撃して進行を食い止めた。その後、諸葛亮の北伐に呼応して孟達が反乱すると、司馬懿と共に鎮圧に向かうが、孟達の矢を受け死亡した。【正史】関羽迎撃後、一糸乱れぬ兵の統率ぶりを見た曹操から前漢の名将・周亜夫の風あり、と称えられた。
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【三国志13】譙周 の武将能力値紹介

譙周(ショウシュウ) 統率16 武力3 知力67 政治71 蜀の官僚、学者。元は劉璋配下。天文に通じる。【演義】劉璋が劉備に包囲された時、劉備に降伏するのが天意であると説いた。その後は劉備に仕え、諸葛亮らと共に劉備に皇帝即位を勧めた。諸葛亮が五丈原に出兵した際は反対し、魏の諸葛誕の反乱に乗じて姜維が北伐軍を起こそうとした際も、「仇国論」を著して姜維をいさめた。鄧艾の軍勢が成都に迫ると劉禅に降伏を勧め、その翌年、劉禅と共に洛陽に移住した。【正史】「法訓」「五経論」「古史考」などの著作がある。国を壊滅させなかったことを司馬昭に評価された。
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【三国志13】周朝 の武将能力値紹介

周朝(シュウチョウ) 統率63 武力68 知力26 政治22 後漢末、荊州南部で反乱を起こした賊。【演義】記述なし。【正史】長沙での区星の反乱に呼応し、郭石と結んで零陵、桂陽郡で反乱を起こす。区星に続いて孫堅に討伐された。
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【三国志13】士祗 の武将能力値紹介

士祗(シシ) 統率63 武力58 知力51 政治52 呉の交趾太守・士燮の長男。【演義】記述なし。【正史】父の死後、弟の士徽と共に孫権に反抗する。呂岱の言葉を信じて降伏するが、油断したところを捕まり、殺された。
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【三国志13】呼廚泉 の武将能力値紹介

呼廚泉(コチュウセン) 統率70 武力71 知力40 政治35 南匈奴の単于。羌渠の子。於夫羅の弟。【演義】記述なし。【正史】兄・於夫羅の死後に単于となる。於夫羅の代に曹操に帰順していたが、袁尚配下の郭援、高幹に呼応して平陽で叛旗を翻した。しかし、鍾繇と馬超ら関中軍に敗れ、再度帰順する。216年に入朝するとそのまま鄴に留め置かれ、匈奴の故地は右賢王・去卑が見ることとなった。
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【三国志13】黄歇 の武将能力値紹介

黄歇(コウケツ) 統率81 武力68 知力84 政治91 戦国時代の楚の宰相。号は春申君。戦国四君のひとり。楚の頃襄王に仕え、秦の昭王を説得して白起による楚侵攻を思いとどまらせ、盟を結んだ。秦の人質となった楚の太子・完に随伴して秦に数年滞在。頃襄王が危篤になった際、秦は太子の帰国を認めなかったため、黄歇は太子を楚へ脱出させ、自らは范雎の取りなしにより帰還した。太子・完が即位して考烈王となると、秦脱出の功により宰相に任ぜられる。考烈王の死後に失脚することを恐れ、自らの子を身籠った李園の妹を王に献じたが、考烈王の死後、李園の刺客によって殺害された。
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【三国志13】胡済 の武将能力値紹介

胡済(コセイ) 統率57 武力39 知力68 政治72 蜀の武将。【演義】諸葛亮の北伐に参加。258年の姜維の北伐では後詰めを務め、漢寿城を守る。鍾会の蜀討伐軍によって陽平関が破られると、成都に救援を求めに向かった。【正史】諸葛亮に仕え、忠実でよく助言したため称賛を受けた。諸葛亮の北伐に従軍し、諸葛亮の死後は漢中の諸軍を統括した。蜀にはもう1人、胡済がいる。鎮西将軍に任ぜられ、256年の姜維の北伐に参加。姜維の援軍となるが合流できず、鄧艾に大敗を喫した。258年、姜維の命で漢寿に入る。演義は両者を同一人物と扱っている。
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【三国志13】何楨 の武将能力値紹介

何楨(カテイ) 統率72 武力48 知力74 政治72 魏、晋の臣。【演義】記述なし。【正史】異民族を抑えるため幽州刺史に任じられて以降、諸葛誕の乱など多くの戦いに参戦した。晋の時代に入り、匈奴の劉猛が反乱を起こすと、これを何度も打ち破りながら、一方で劉猛配下を誘って裏切らせ、劉猛の暗殺に成功している。
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【三国志13】公孫続 の武将能力値紹介

公孫続(コウソンショク) 統率63 武力68 知力57 政治63 公孫瓚の子。【演義】記述なし。【正史】公孫瓚が袁紹により易京楼に追いつめられると、張燕に援軍を借り、袁紹を外から攻撃するように指令を受ける。しかし、密偵が袁紹に捕まって作戦が露見。指令を逆用され、おびき出された公孫瓚は袁紹に大敗を喫した。その後、敗北を免れないと悟った公孫瓚と心中した。
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【三国志13】顧雍 の武将能力値紹介

顧雍(コヨウ) 統率43 武力18 知力80 政治88 呉臣。顧邵、顧譚、顧承の父。「呉の四姓」顧家の出。【演義】張紘の推挙で孫権に仕え、太守の職務を代行する。赤壁の戦いの開戦前は、張昭と共に曹操との交戦に反対した。夷陵の戦いの前、孫権が曹丕に臣従して呉王に封ぜられた際には、他人の爵位を受けることはないと反対。229年、孫権が帝位に即くと、丞相に就任した。【正史】蔡邕[サイヨウ]の門下。225年に丞相の孫邵[ソンショウ]が死ぬと、周囲は張昭を後任に推したが、孫権は顧雍を任用した。終始寡黙で、特に政策に反対の時は発言しなかった。顧雍が黙っていると孫権は考えを改めた。
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