武将

武将

【三国志14】尹黙の武将能力値紹介

尹黙(インモク) 統率11 武力15 知力65 政治76 魅力62 蜀の学士。司馬徽、宋忠の門下。【演義】諸葛亮らと共に、劉備に皇帝になる決意をさせた幕僚の1人。諸葛亮の第1次北伐では博士に任命された。【正史】経書史書に詳しく、特に「春秋左氏伝」に通じていた。劉備が益州を平定すると勧学従事に任ぜられ、劉禅が太子になると「春秋左氏伝」を教えた。
武将

【三国志14】隠蕃の武将能力値紹介

隠蕃(インバン) 統率13 武力18 知力67 政治67 魅力69 魏の官吏。【演義】記述なし。【正史】曹叡の意を受けて「埋伏の毒」として呉に投降し、盛んに司法を論じて孫権から廷尉監に任命された。巧みな弁舌で交友を広げ、朱拠や郝普[カクフ]とは特に親しくなったが、羊琇や潘濬からは警戒された。のちに謀反が発覚して誅殺されたが、拷問を受けても呉内部の協力者の名は明かさなかった。
武将

【三国志14】尹大目の武将能力値紹介

尹大目(インダイモク) 統率4 武力9 知力34 政治50 魅力48 魏の官僚。大目は字。名は不詳。曹爽の腹心。【演義】曹爽が司馬懿に処刑された後、仇を討つために偽って司馬師の部下となる。友人の文欽が毌丘倹と共に反乱を起こした時、文欽に司馬師の死が近いことを知らせようとするが、その意図が伝わらず追い返された。【正史】少年の頃、曹氏の召使いとなり、そのまま皇帝の側に仕えた。
武将

【三国志14】尹賞の武将能力値紹介

尹賞(インショウ) 統率51 武力46 知力60 政治66 魅力53 天水の武将。魏に仕えた後、蜀に降る。【演義】姜維の友人。諸葛亮が天水を攻めた時、先に蜀に降伏していた姜維と連絡を取り合う。蜀軍が攻め寄せると同僚の梁緒と謀って城門を開き、蜀軍を招き入れた。【正史】諸葛亮が天水を攻めた時、天水太守の馬遵から異心ありと疑われる。馬遵が逃走したため、姜維、梁虔、梁緒と共に降伏。蜀の滅亡前に死んだ。
武将

【三国志14】殷署の武将能力値紹介

殷署(インショ) 統率70 武力68 知力37 政治41 魅力42 魏の武将。【演義】記述なし。【正史】韓遂、馬超らの配下だった兵士を率い、趙儼[チョウゲン]の指揮下で羌族の侵攻軍を撃破した。219年、樊城[ハンジョウ]が関羽に包囲されると、朱蓋らと共に徐晃の援軍として派遣された。
武将

【三国志14】陰夔の武将能力値紹介

陰夔(インキ) 統率22 武力27 知力64 政治75 魅力65 袁尚の幕僚。豫州刺史。【演義】袁紹の死後、袁尚に仕える。冀州に攻め込んできた曹操軍との戦いに連敗を重ねた袁尚の意を受け、曹操への降伏の使者となった。【正史】演義と同様、曹操への降伏の使者として赴くも断られる。のち曹操軍に包囲されると、馬延らとともに曹操に投降した。
武将

【三国志14】殷観の武将能力値紹介

殷観(インカン) 統率24 武力25 知力63 政治69 魅力58 劉備の幕僚。【演義】記述なし。【正史】赤壁の戦いの後、荊州牧となった劉備から荊州の主簿に取り立てられる。孫権から劉備に益州共同攻略の申し出があると、孫権軍の先駆けになることに利はないとして、申し出は受けても出兵は控えるよう進言。この功により、荊州別駕[ベツガ]に昇進した。
武将

【三国志14】尹楷の武将能力値紹介

尹楷(インカイ) 統率54 武力56 知力42 政治44 魅力43 袁尚の武将。武安の県長。【演義】袁譚が曹操に降伏した直後、審配の策で毛城に駐屯し、上党からの糧道を確保する。攻め寄せてきた曹操軍を迎撃するが、許褚に一刀のもとに斬り伏せられた。【正史】演義と同様、毛城を守っていた。曹操軍に攻められて陥落した後の消息は不明。
武将

【三国志14】伊籍の武将能力値紹介

伊籍(イセキ) 統率29 武力23 知力77 政治86 魅力85 劉表の幕僚。後に劉備に仕える。【演義】劉表が劉備から贈られた的盧を返した時、的盧の凶相が乗り手に祟るという逸話を劉備に伝える。蔡瑁が劉備暗殺を謀った時は劉備に危機を伝え逃亡させた。劉表が死に、後を継いだ劉琮が曹操に降伏すると、劉備に仕え関羽と共に荊州を守る。荊州が呂蒙の攻撃を受けると馬良と共に救援要請のため成都に向かい、関羽が死ぬと成都に残った。その後、劉備に皇帝になるよう勧めた。【正史】使者としての機知、応対を孫権に感心された。諸葛亮、法正、劉巴、李厳らと蜀科(蜀の法律)を作った。
武将

【三国志14】韋昭の武将能力値紹介

韋昭(イショウ) 統率16 武力20 知力65 政治73 魅力68 呉の幕僚。正史では、司馬昭の名を避けて、韋曜と記される。【演義】記述なし。【正史】太子・孫和の命で「博奕論」を著し、博奕(すごろく)が益体のない遊びだと論じた。孫亮が即位すると諸葛恪に推薦され、薛瑩、華覈らと共に「呉書」の編集に当たる。しかし、孫晧が即位すると「呉書」の編集方針を巡って孫晧と対立。下戸だったがむりやり酒を飲まされ、態度が反抗的だとして処刑された。華覈とは親交が篤く、華覈は最後まで韋昭の助命嘆願に奔走した。
タイトルとURLをコピーしました